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子供800人を救命!勝田銀次郎と茅原基治の陽明丸事件について

2017年11月30日(木)の奇跡体験!アンビリバボー』今から約100年前に起こった、勝田銀次郎茅原基治によるロシア人の子供800人の救出劇について取り上げられました。

海外で多くの人の命を救った例としては、大二次世界大戦中に6000人ものユダヤ人を救った杉原千畝が有名ですが、今回はロシア革命に関連し、多くの子供の命のを救った陽明丸事件が『アンビリーバボー』で取り上げられたことで、この件について、そしてこの件に関わった重要人物それぞれの役割について調べてまとめてみました。

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陽明丸事件とは?

ロシアで多くの子供が難民に

1917年(大正6年)、ロシア革命が起こります。

それにより、もともと食糧不足であったところに治安が悪化、当時の首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルグ)の多くの子供たちは疎開を余儀なくされます。

しかし、混乱状態の中、戦火は疎開地まで及び、子供たち800人は難民となってしまいます

そこで子供たちは、アメリカの赤十字によって一旦保護され、ロシアの東にあるウラジオストックに避難させられます。

 

このウラジオストックは、地図で見てもわかる通り、当時の首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルグ)から遠く離れ、むしろ日本に近いですね。


出典:http://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/kuni/rus_vla_2014.html

800人の子供たちは、このロシアの端にあるウラジオストックに避難したものの、いつここにも戦火が忍び寄るとも知れず、アメリカの赤十字は子供たちをロシアから国外へと避難させようとします。

そこで、アメリカやイギリス、フランスなどの多くの船舶会社に協力を依頼し、子供たちをヨーロッパへ移送してくれるよう掛け合ったものの、当時資本主義と社会主義が対立していた中、この依頼を引き受けてくれる会社はありませんでした

欧米の船舶会社は、社会主義のロシアに対して警戒心や敵対心を持っていたため、とても協力できなかったようです。

そこで、アメリカ赤十字はダメもとで、日本の船舶会社に子供たちの移送を依頼します。

 

その中で子供たちをヨーロッパへ移送することを引き受けたのが、事業家であり勝田汽船を運営していた勝田銀次郎でした。

とは言っても、決して簡単な決断ではなく、日本でも日露戦争の影響や社会主義国であるロシアに対して敵対心を持っている人々が多く、そんな国の子供たちを助ければ、日本中から非難を受けたり、自分の会社が経営困難な状況へと追い込まれてしまうという危険があったそうです。

それでも、人命を救うという気持ちが勝ったのでした。

ところが、実際問題として、いくつか大きな問題が浮上します

 

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移送に際する困難

800人のロシア人の子供たちをヨーロッパへと移送することを引き受けた勝田銀次郎でしたが、いくつか問題がありました。

まずは、勝田が所有していた陽明丸は、もともと物資を運ぶための船であったため、800人もの子供たちを移送できるよう、船を改造する必要がありました。

この改造費用は数千万円にもなる莫大なものでしたが、勝田がすべて私財で賄いました。

また、この船の改造に関して、反対や異議を唱える従業員は誰一人いなかったそうです。

 

船の改造は出来ても、今度はしばし船長を選ぶのに苦労をします。

というのも、第一次世界大戦の影響で、当時なお海には多くの機雷が残っており、航海の危険性から陽明丸の船長を引き受けてくれる人がなかなか見つからなかったのです。

そこで名乗りをあげたのが、当時その優れた腕前で有名だった航海士、茅原基治でした。

 

移送の航路

1920年7月、陽明丸は神戸港を出て、その後に子供たちがいるウラジオストックに立ち寄り、800人の子供たちを船に乗せます。

その後、北海道の室蘭市に寄航し、しばし現地の子供たちとの交流を経て、フィンランドへと到着します。

子供たちの船の旅は、3ヶ月ほどでした。

その後、フィンランドからロシアへと移送され、子供たちの親がいるペトログラードに無事戻ることができたのでした。

陽明丸事件に関わった勝田銀次郎茅原基治北室南苑

勝田銀次郎(かつた ぎんじろう)


出典:Wikipedia「勝田銀次郎」

1873年10月1日 - 1952年4月24日
愛媛県松山市出身。

政治家・事業家であり、勝田商会(後の勝田汽船)創業。

人物は、気性が激しい面があったものの、同時に信義にあつく、博愛精神を持っていたようです。

 

茅原 基治(かやはら もとじ)

岡山県笠岡市出身。

航海士・船長であり、みなが陽明丸の船長を引き受けることを拒んでいた中、その危険な任務を引き受け、無事子供たちを移送させることに成功した。

人物は、義理堅く、実直な方だったようです。

茅原氏は自身の体験を『赤色革命余話―露西亜小児団輸送記―』に記し、出身中学校の校長先生に寄贈したとのこと。

こちらは現在、岡山県浅口市金光町にある金光図書館に所蔵されています。

 

北室南苑 (きたむろ なんえん)

書・篆刻家、著述家
北枝篆会会長、NPO法人『人道の船 陽明丸顕彰会』理事長

後述の通り、長い間知られていなかった陽明丸事件について、世に知らせるきっかけとなった人物。

著書

  • 雅遊人 細野燕台―魯山人を世に出した文人の生涯』、里文出版、1997年
  • 篆刻アート―その見方 楽しみ方』、 里文出版、1998年
  • 哲学者西田幾多郎の書の魅力』、 里文出版、2007年
  • 陽明丸と800人の子供たち』、並木書房、2017年

では、このように素晴らしい活動が長い間人々に知られないままでいた原因は何なのでしょうか?

 

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なぜ90年間も秘密にされていた?

陽明丸事件の話が知られたのは、事件当時から90年も経ってからのことでした。

なぜこのように長い間、この件が人々に知られることがなかったのでしょうか?

 

それは、今でこそ多くの子供の命を救ったとして多くの人に感動を与えるものですが、長い間、勝田銀次郎や茅原基治、そして勝田汽船の従業員たちもみな、非国民という扱いや非難を受けることを危惧し、口を閉ざしていたことが理由でした。

それが、陽明丸によって命を救われた祖父母を持つロシア人女性、オルガ・モルキナさんが2009年、ロシアで北室南苑氏に出会ったことにより、ことは発展していきます。

 

当時、北室氏はロシアのサンクトペテルブルグで展覧会、「ロシア絵本と篆刻の融合」を開催していました。

オルガさんは、父母の命が救われていなければ、自分もこうして生まれることはなかったと、どうしても命の恩人である勝田銀次郎と茅原基治の2人にお礼を言いたいと考えており、北室氏に調査を依頼。

北室氏は日本に帰国後、この2人について調査し、お墓を見つけました。

2011年、オルガさんは日本を訪れ、勝田銀次郎と茅原基治の両方のお墓に花を捧げ、感謝の気持ちと想いを述べたそうです。

 

陽明丸と茅原基治に関する詳細資料

陽明丸と茅原船長に関してより詳しく知りたい方は、NPO法人 人道の船 陽明丸顕彰会のHPに様々な資料があります。

下は、陽明丸顕彰会の記者会見の様子で、陽明丸事件について非常に多くのことを知ることができます。

 

まとめ

この陽明丸事件について調べてみると、自身の身の危険を顧みずに人命救助に尽力した人々がいたということに深く感動を覚えるとともに、主義や思想の違いを超えたヒューマニスト、勝田銀次郎と茅原基治の両氏の素晴らしい行動に胸が熱くなりました。

また、この件を世に知らせるきっかけとなった北室南苑氏の尽力も評価されるものだと感じ、陽明丸に関わった人々の中の記述に含めました。

こういった話は、多くの人に知られ、語り継がれていって欲しいものだと感じます。

 

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